児童虐待を語ってみる。

2008-05-06 | 11:16

子供は一人では生きられない。
それは仕方ない。
その仕方ない「弱み」につけこんで、
非力な子供の自己を犯しているのが日本の社会です。
そんな彼らが児童ポルノの廃止を訴えたところで何の説得力も無い。
笑顔で幼少の者の自己を日常的に輪姦している連中ですよ?
笑っちゃいますよね。
逆に、そのように精神的輪姦に常習性があれば、
他人の自己を押さえつけるという快感を身に染みて知っている者は、
肉体的輪姦に移行しても全く不思議ではありません。
学校の先生が子供に手を出しても、それは極々当然に思える。
この理屈、おわかりでしょうか?

そうですね、話の流れからすると、
「他人の自己を押さえつけるという快感を知っている者」には「その傾向」があるといえます。
それは統率する者です。
人間を統率する者は「他人の自己」を抑えるに飽き足らず、「肉体的」にも支配しようとする。
宗教の教祖が人間を「囲って」いても、
王様が複数の妾を持っていたことも、
それは統率する者として、当然の成り行きです。
「英雄色を好む」と言いますが、これは単に「好色」なのではない。
英雄とは「統率する者」です。
支持を得ているからこそ「英雄」なのです。
「支持を得る」とは「他人の自己」と同化する、されること。
強い言葉ですと「崇拝」になる。
崇拝されることは同時に「他人の自己」を支配することでもある。
ということはマイケル・ジャクソンがネバーランドを作ったのも根本は同じと言えそうです。
面白いですね。

ところで、
僕は冒頭で「日本の社会」を強調しましたが、
「なんだ、他の社会でもあることじゃないか。」という声が聞こえてきそうです。
なるほど統率する者の傾向は、何も日本の社会に限ったことではないようです。
日本の場合は「社会的に統率」することを当然であり「善い」ことであるとしている節がある。
そして自ら進んで統率されたがる。集団と同化したがる。
つまり「犯されたがっている」んですね。それが気持ちいいから。
同意の上でやっている行為に疑問を挟んではいけないのでしょうか?
みんなで気持ち良くなっているところに、申し訳ありません。
でも、あなたは本当に「同意の上」ですか?

児童虐待について考えてみましょうか。
なぜそれが起こるのか。
親の「自己」が未発達だからです。
統率する者であれば、ある程度の統率の仕方も分かっています。
しかし、集団と同化することしかしなかった人間は、
子供ですら統率できない。しようとしない。
出来ないのを無理やりに「統率」しようとするから虐待になる。
言葉も腕力も力加減を知らないから。
では「しようとしない」場合はどうなるか。
そこには「友達のような親子」が出来上がります。
「え、それは良いことじゃないの?」
果たして本当に良いことでしょうか?
それこそが悪循環の元凶だと思っています。
「友達のような親子」は、
「一人では生きられない子供」と「一人では生きられない親」なのです。
「良いこと」だと思うのは、それが無くては「生きられない」から正当化したいだけのことです。

親は子供を育て、そして突き放さなければならない。
それが出来ないのは「子供がかわいそう」なのではなくて「自分がかわいそう」なのです。
児童虐待をする親と何が違うのか?
同じ穴のムジナです。

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